SWP | 365日、海! サーフィンと海遊びのブログマガジン

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会社倒産の危機で立たされた人生の岐路

一時、30名近くいたスタッフは店舗事業からの撤退とともに会社を去っていた。(前回はこちら、最初から読む方はこちら
2011年2月、ボクはまた1人に戻ったのだ。
でも不思議と寂しさはなかった。
その年、2011年の6月に出産予定日を控えている我が子のためにも寂しさに浸っている暇はなかったのだ。

2011年1月末に、それまで運営していた全ての店舗を閉店させ、2月いっぱいは残務に追われていた。
しかし、それと同時にこれから先のことにも目を向けなくてはならなかった。
これまでの経験を活かせばいろいろとできそうなことはあった。
しかし、また何をするかは決まっていなかった。

以前のように眉間にシワを寄せながら、大きなストレスを感じ、資金繰り奔走したり、スタッフの教育に苦心したりするのは自分には向いていなかった。
そもそも、会社を設立したきっかけは『好きなときに、好きなだけ、好きなサーフィンをするため』だったのだ。
それがいつしか、好きなサーフィンがまったくできない働き方になってしまっていた。
まるでサーフィンをすることが後ろめたいことであるかのように感じてしまっていたのだ。
まさに本末転倒というやつだ。
これを機にもう一度原点に立ち返り、自由にサーフィンができるライフスタイルを実現させようと模索し始めたのだ。

それを実現させるには一体どうしたらいいのだろうか。
実際にそんなことが可能なのだろうか。
まずはそこから探ってみた。
もっともシンプルに考えてみると、サーフィンを仕事にするということだ。
ボクは1999年にプロ・ロングボーダーの資格を得て、それから数年間はプロサーファーとして生計を立てていた経験がある。
しかし、ボクの成績ではプロサーファーとしてのスポンサーからの給料や賞金だけで家族を養っていくのは現実的ではなかった。

それならライターとしての道はどうだろうか。
『書くこと』が大好きなボクにとってはライターという仕事が向いているように思えた。
以前、何度かサーフィン誌に寄稿したこともあったし、そのときにはそこそこ評価してもらえていた。

好きなことの単体勝負(つまりサーフィンやライター単体)では厳しそうだが、『サーフィン×書くこと』という組み合わせ技ならば勝負ができるかもしれないと思った。
それは、根拠のないものではなく、実は当サイト『Saltwater Players』(以降SWP)を立ち上げて以来、順調に読者を増やすことができていたことが自信の裏付けとなっていた。
>> 次のページは >> SWPの成長の影いは人物の力が大きく働いていた

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ビジタリズムのすすめ

素晴らしいコンディションの下、不穏な空気が

素晴らしいコンディションの下、不穏な空気が


先日の話である。

真っ青な空の下、素晴らしい波がブレイクしていた。
風はユルいオフショア。
波のサイズはセットでアタマくらい。
New yearの混雑も一段落し、スポットには10名程度のサーファーしかラインナップしていなかった。
ウネリはコンスタントに入ってきていたので、そのくらいの人数であれば全員で楽しむことのできるコンディションだった。

パドルアウトしピークに近づいてみると、6人がオーストラリア人サーファーのグループで3人が日本人サーファーというメンバーだった。
近くにいた年輩の日本人サーファーに挨拶をすると、挨拶もそうそうにオースラリア人のグループを指し、

「あいつら自分たちだけで波まわして全然乗れねえよ。まじ最悪」

と不機嫌そうな顔をした。
話を聞いてみるとその方は以前バリに住んでいたようで、今でも定期的にバリに通っているということだった。
なんとなくそのことに対するプライドを強く持っているという空気が伝わってきた。
どうも雲行きが怪しかった。
サーフィンを楽しみたかったのだが、そういう雰囲気ではなさそうだった。

たしかにピークのいいポジションはそのオージーたちが占拠していた。
こちらには目もくれない。
どうもタチが悪そうだ。
悪いタイミングで海に入ってしまったことを後悔した。
最悪の状況ならすぐに海から上がってしまおう、と思っていた。

ピークにはオージーたち。
その少しショルダー側に日本人サーファー。
ボクはセット以外の波を狙って、オージーたちのややインサイド寄りの奥側にポジショニングした。

セットが入ってきて、オージーたちが次々と波を捕まえた。
でも余っている波もあったのでボクは中くらいのいい波をゲットすることができた。
それはインサイドまで続くいい波だった。

>> 次のページは >> オーストラリア人サーファーのマナーはどうだったのか?

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あり得ない偶然の再会!

神様の悪戯だろうか。
それとも偶然の出来事なのか。

今日もガラガラでいい波!

今日もガラガラでいい波!


本日もクタ方面でいい波がブレイクしていた。
サーファーの姿もまばらで海はガラガラだ。
昨日に引き続き、アウターリーフはほぼ貸し切り状態だった。
サーファーはボクを含めて3人。
1人がオージーで1人が日本人、そしてボク。
波はあまっており、和気あいあいと波をまわしていた。

セット間隔があいたときにラインナップにいた日本人と話をした。
「どちらからいらしてるんですか?」
と何気なく聞いてみた。
「下北沢なんですよ」
「へえ、そうなんですね」

最初は特に『下北沢』というキーワードになんの反応しなかったのだが、よくよく考えてみるとボクは幼稚園まで下北沢にいたのだった。
そのことをふと思い出して、
「実はボクも子どものとき下北沢だったんですよ」
「へえ、そうなんですかっ。下北沢のどちらですか?」
「北沢なんですけど、育成幼稚園ていうところに通ってたんですよ」
そうボクがいうとその日本人が目を丸くした。
「えっ! 私も育成幼稚園ですよ!」
「えっ!! 本当ですか?」
お互い目を丸くした。
>> 次のページは >> 更なる偶然が重なったのだ!!

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バリ島の抱える環境問題

バリ島は美しい。しかし・・・

バリ島は美しい。しかし・・・


2012年10月に家族でバリ島に移住した。
実は我が妻であるド天然嫁にとって、移住が初めてのバリ島だったのだ。
ボクは何度も「下見をしにバリに行こう」と誘ったのだが、頑として下見に来ようとしなかった。

「どうせもうバリに行くのは決まったことなんでしょ? じゃあいいよ、行かなくて」

と拒絶し続けたのだった。

そして、初めてバリにやってきたその日、つまりバリ島移住初日にド天然嫁は衝撃の言葉を発したのだ。

「私、バリ無理かも。なんか汚いもん」

初日から大きくつまづいてしまったのだ。

バリ島は美しい島である。
海と空は青いし、緑も多い。
自然もまだ多く残っている。
しかし、ゴミがそこらじゅうに落ちているのも目を背けがたい事実なのだ。

>> 次のページは >> ゴミ問題に対して何ができるのだろうか?

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事業撤退から広がった新たなる景色

2010年初夏。
普段は会議室か近所のカフェで打ち合わせをすることが多かったのだが、この日はビジネスパートナーであり親友のヨッコを海へ誘った。
良く晴れた気持ちのいい朝だった。
でも、これからヨッコに話す内容は重苦しいものだった。
開放的なビーチで話をしたほうが重い話が少し軽くなるような気がしたのだ。(前回はこちら

僕は倒産の危機を脱出した今こそ、事業を整理するべきなのではないだろうか、と考え始めていた。
それまで、情熱を傾けていた店舗事業からの撤退が頭の中から離れずにいたのだ。
店を閉めるには資金的に余裕のあるこのタイミングしかないのではないか、そんな風に考えていたのだ。
それまで、どんなに苦しくても『店を閉める』ということを具体的に考えたことはなかった。
でも、心のどこかで全てをリセットしてしまいたいという潜在的な願望があったようだ。
そんな思いが、そのときに表面に浮かび上がり、日々その存在感を増幅させていた。
僕のそんな思いに対するヨッコの率直な意見が聞きたかったのだ。

「本当に店を閉めるのか?」
僕のその言葉に戸惑いを隠せない様子だったヨッコ。
「そのほうがいいかなって思っている」
僕は声を振り絞った。

僕とヨッコの間に長い沈黙が流れた。
僕は彼の目をまっすぐ見ることができなかった。
彼の店に対する情熱を知っていたからだ。
彼も僕の方には目を向けず、だまって海を見つめていた。

起死回生でなんとか会社が立ち直ったものの、本質的には何も変わっていなかった。
相変わらず店舗の売上は厳しいものだった。
苦戦は続いていたのだ。
このまま店舗事業を続けていても、この先、資金がつまってしまうのは目に見えていた。
少なくとも僕はそう捉えていた。
資金に少しの余裕が出たこのときこそ店舗事業を精算し、会社を危機から救う最後のチャンスだと感じていたのだ。

ヨッコはゆっくり僕の方を向き、
「そのほうがいいかもな、実をいうとな、俺も薄々そう思ってたよ」
とすぐに視線を海に戻した。
>> 次のページは >> 事業の撤退は困難を極めた

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倒産の危機を救った奇跡の選択

昨日、倒産の危機から学んだことについて書いてみた。(倒産の危機から学んだこと、はこちら
なんとなく続けて書いてみようという気になったので書いてみることにした。

会社というものは儚いものだ。
一時、どんなに利益を出そうとも、落ち始めるてしまうとあっという間だ。
坂道を転がり出すとそれを止めてさらに上に持ち上げるには相当な力が必要になってくる。
特に所帯が大きくなっていればなっているほど下に落ちる力は強くなる。
まるで大きな鉄の塊がどこまでも転がり落ちていくような絶望的な状況に陥っていたのだ。

2010年4月。
僕はその当時のビジネスパートナーであるヨッコと会社で打ち合わせをしていた。
ヨッコとは中学時代からの親友でお互いを知り尽くしている間柄だ。
きっと彼はわかっていたのだろう。
僕が店舗ビジネスに対するモチベーションを失っていることを。

「お前は店舗事業から外れていい。お前の持ち味は自由に遊んでいる中から仕事を作ってくることだ。だから店のことは全て俺に任せてくれ」

ヨッコはそう僕に言ったのだ。

僕はその意外な言葉に戸惑いを隠せなかった。
モチベーションが下がっているとはいえ、僕とヨッコで命を削りながら育ててきた事業。
「はい、そうですか」
と快諾するほど話は簡単ではなかった。
でも考えれば考えるほどそれ以外の選択はないように思えた。
これ以上僕が店舗事業に関わって、何かを好転させる自信がなかった。
即答こそできなかったが、後日彼からの提案を受けることにしたのだった。
>> 次のページ >> Y氏の決断が会社を救う!?

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倒産の危機から学んだこと

先日のコラムで『好きなことは継続する』ということをテーマに書いてみた。(先日の記事はこちら
そんなことは言われなくてもわかっている、と思われた方も少なくないと思う。
しかし、僕にとってはそんな当たり前のことに逆行したことで苦しんでいたことがあったのだ。

2010年正月。
僕は失意の中にいた。

2004年、自由にサーフィンをするために立ち上げた会社は最高の滑り出しをみせ、みるみる間に貯金通帳の残高は増えていった。
2007年にはその売上をより安定させるために雑貨を販売する店舗の展開に乗り出していた。
店舗は瞬く間に増えて、気がつくと従業員が30名近くになり、店舗は6店舗にまで増えていた。
『株式上場を目指すぞ!』などと自信たっぷりだった僕はそのころ有頂天になっていたのかもしれない。
何しろ、毎日のように有名ディベロッパーや百貨店、ショッピングセンターなどから出店要請があり、いつの間にか出店場所を選べるような立場になっていた。
店舗は勢いに乗じて売上を伸ばし、周辺の店舗を圧倒する成績を残していたのだ。

その風向きが変わってきたのが2009年だった。
店舗の売上が軒並み落ちてしまったのだ。
原因はいろいろあったが一番の原因は僕自身にあった。
社長である僕のモチベーションが落ちていたことが原因だったのだ。
元来、『物』にさほど興味のない僕が物を売るには無理があった。
もっというと、店舗に対してまったく興味がなかったのだ。
ただ、儲かりそうだからと始めた事業。
プライベートでは店舗への興味は愚か、買い物嫌いで、ショッピングセンターや百貨店などに好んで入るようなことはなかったのだ。
>> 次のページは >> 倒産の危機から学んだこととは?

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一応お正月なので『抱負』を語ってみる

やはり年始ともなると『抱負』とやらを述べないわけにはいくまい。
抱負。
ちょっと調べてみたら、抱負とは『心の中で抱いている決意』とあるではないか。
では別にこういった場で発表する必要はないではあるまいか。
いやいや、別に僕が抱負を述べ、それが実行されなくても誰が咎めるわけでもないのでせっかくなので書いておこう。
実行できる自信はあまりないため、自分自身に向けた備忘録、と解釈して温かく見守っていただけるとメンタルの弱い僕にとってはありがたいことだ。
まったく実行されていないからといって「おい、やってないじゃないかっ」などと責めないでほしいのだ。

2014年は我が社、パレット株式会社にとってポイントとなる1年になりそうなのだ。
2011年3月にパートナーのいとうまさしと立ち上げた会社が早いもので4期目に入る。
先日、まさしから近所のカフェに呼び出され、「来期が勝負なのです。我々もしっかりとした会社になるのです!」などと熱く語られたことで、これまでのようにのんべんだらりとはしていられないぞ、という気になってきたのだ。
>> 次のページ >> 2014年の抱負は!?

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継続の秘訣

昨日、正月に決意してやり始めたことで20年続いたことがある、という記事を書いた。(昨日の記事はこちら
「長続きの秘訣は?」という質問があったので今日はそれについて書いてみようと思う。

元来、僕は何を始めても長続きしない典型的な3日坊主だった。
何かを始めては途中でやめてしまう、というのが僕の日常になっていた。
古くは中学生までしか続かなかったサッカー。
今でも中学時代の仲間に会うと、「あのままサッカーやってればプロになってたかもしんないのにな」と言われる。
それほどまでにサッカーに熱中していたし、地域ではそこそこ名の売れた選手だったにも関わらず続けることができなかった。
高校に入ると遊び仲間ができ、夢中になっていたサッカーをあっさり捨てて、遊びにすべてを捧げるようになった。
いわゆる遊び人としてデビューを果たしたのだ。

振り返ってみると、そんな風に何をやっても続かない僕にも3つだけ続けてこれたことがあった。
それは『サーフィン』、『読書』、『日記をつけること』。
この3つは20年以上続いていることだ。
翻ってみると、それ以外のことは全て途中でドロップアウトしたということにもなる。

サーフィンは高校生時代に始めたが、すぐにやらなくなってしまった。
そもそも『女の子にモテたいから』という動機が極めて不純だったため、続かなくなるのは時間の問題だったのだろう。
しかし、22歳のときに船で地球一周をしたときに、『日本に戻って何がしたいか?』という自問に対する答えが、『海とともに生きたい』ということだった。
そのことがきっかけで再びサーフィンに目覚めたのだ。

『読書』は高校生時代からほぼ欠かさず毎日続けている。
別に続けようと思って意識的にやっているわけではないのだが、気がついたら読まずにはいられない人になっている。
『日記』に関しては昨日書いたとおり、20年間毎日続けていることだ。
>> 次のページ >> 続くことの共通点とは??

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残ってほしいものがここにはある

いつまでの変らないでほしい光景がある

いつまでの変らないでほしい光景がある


『発展』という言葉は、普通ポジティブな言葉として使われることが多い。
しかし、現在の経済至上主義の世の中においては必ずしも発展がいいこととは思えないこともあるのだ。

バリ島にやってきて1年が過ぎた。
僕の場合、バリが大好きで大好きで念願叶ってバリに移住したわけではない。
もちろん、嫌いではなかったし、好きではあった。
しかし、もろもろの事情から海外に移住しようという決断が先だった。
なんというか、移住先を決める際に消去法で残ったのがバリだった、という言い方が一番適切な表現かもしれない。

移住したてのころ、日本人移住者からバリの社会は日本の30年くらい前の世界だ、という話を耳にした。
ある側面から考えてみるとその通りだと思った。
30年前の日本。
僕が10歳のころの世界だ。
昭和時代。
近所付き合いも色濃く残り、地域のコミュニティも今よりあった気がする。
マイカーが我が家にやってきたり、ビデオデッキが設置されたりと物質的に豊かになり始めた頃だ。
大人たちは馬車馬のように働き、日本経済の発展を支えていた時代だ。

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