SWP | 365日、海! サーフィンと海遊びのブログマガジン

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ドジ井坂ヒストリー<サーフィンとの出会い> 【プロサーフィン界初代チャンピオン ドジ井坂 その3】

中央でネックレスをしているのが井坂少年

中央でネックレスをしているのが井坂少年

1948年、ドジ井坂は茅ヶ崎に生まれた。
両親が小学校の教師という厳格な家庭に生まれ育ち、近所では『先生様のお坊ちゃん』と呼ばれていた。
少年時代の井坂はどちらかというと人見知りをする内気な少年だった。

そんな少年が小学校に上がり、遊び場はいつも『海』と決まっていた。
泳いだり、魚を捕まえたり、漁村の浜に置いてある船に乗ってみたり、いつも側に『海』があった。

中学に入り、アメリカンカルチャーに興味を持ち始めた井坂少年はアメリカの代表的なスポーツであるバスケットボール部に入部し、没頭していった。
アメリカンカルチャーへの憧れが日に日に膨らんでいったある日、横浜へアメリカの映画を観に行った帰りになにげなく寄った洋書屋で出会った『SURFER MAGAZINE』に衝撃を受け、井坂の人生は大きく動き出したのだ。

当時の日本のサーフィン事情は、ある限られた人たちが日本に駐留していたアメリカ兵にサーフボードを借りてサーフィンをしていたまさにサーフィン創成期だった。
もちろん市販のサーフボードなどはなく、サーフボードを手に入れるにはアメリカから輸入するしかなかった。
平均月給が1万円台の時代にサーフボードの価格が7万円という高価なものだったため井坂には到底手の届くようなものではなかった。

井坂少年、自作のサーフボードで

井坂少年、自作のサーフボードで

高校に入学した井坂は、バスケットボールに明け暮れる毎日を送りながらも、サーフィンへの思いは捨てきれず、ついに見よう見まねでサーフボードを自ら作ってしまったのだ。
将来大工になろうと考えていた井坂はカンナを使いこなせたこともあり、木を削り、器用にアウトラインをつくり、ロッカー(サーフボードのそり)までちゃんとつけてしまっていた。
小学生のころからエアーマットで近所の海で波乗りをして遊んでいたため、サーフボードにもわりと簡単に乗れるようになり、サーフィンというアメリカンカルチャーを象徴するスポーツに心を奪われ始めていった。

サーフィンをやり始めた井坂少年 ~ドジ井坂~

サーフィンをやり始めた井坂少年 ~ドジ井坂~

そのころには、湘南各地でサーフィンを始める若者が徐々に現れ始め、『大礒ビックウェイバーズ』、『茅ヶ崎バーバリアン』、『鵠沼シャークス』、『鎌倉グレーミー』などのサーフィンクラブが湘南各地ででき始めていた。
井坂は手先が器用なことと、持前の好奇心でさらにサーフボードを作り続け、高校2年生の時にはとうとうウレタンフォーム(現在のサーフボードの材料)のサーフボードを自ら作り出してしまったのだ。
自分のサーフボードだけにとどまらず、頼まれれば友人のサーフボードも作りはじめ、シェイパー(サーフボードを作る人)としての基礎を築き始めたのだ。

高校を卒業し、浪人生活を送っていた井坂。
当時、日本のサーフィンのパイオニアの一人、TED阿出川氏が作ったサーフボード工場でシェイパーを探していることを知った井坂はすぐにその門を叩くことになった。
手先が器用で独創的で好奇心溢れる井坂はメキメキと頭角を現し、当時では考えられないほどの金額を稼げるシェイパーへと成長していった。

サーフボードを作る傍ら、サーフィンそのものの魅力にも取りつかれ、波があるときは湘南の海でサーフィンをした。
サーフィンをするきっかけとなったアメリカンカルチャーへの憧れも日に日に増していった。
そしてついに19歳の井坂はサーフボードシェイプで貯めたお金を握って、単身アメリカへ渡る決意をしたのだった。
  つづく

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