SWP | 365日、海! サーフィンと海遊びのブログマガジン

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新会社設立直後に襲った最大の悲劇

まさしと立ち上げた新会社だったが・・・

まさしと立ち上げた新会社だったが・・・


2011年3月1日。
ボクは会社倒産の危機をなんとかギリギリで乗り越え、まさしと新たなる会社を設立した。(前回はこちら
暗黒の冬の時代から、ようやく希望の春を迎えようとしていた。
運も向き始めていた。
新会社の設立を待っていたかのように売上の見込みも立ち、順風満帆の滑り出しのようにみえた。
しかし、事態はそう簡単には運ばなかった。

会社設立から11日後。
そう、2011年3月11日。
まだ記憶にも新しい『東日本大震災』が東北から関東地方を襲った。(震災当日の様子はこちら
東北から北関東の沿岸では巨大大津波が多くの人命を飲み込み、未曾有の大災害となった。
この大災害はボクらにとって対岸の火事ではなかった。
パートナーであるまさしの実家が宮城県の沿岸にあり、震災当初からまさしの両親との連絡が途絶えてしまっていたのだ。

まさしは心労と不安に押しつぶされそうになっていた。
事務所には顔を出していたが、とても仕事になるような状況ではなかった。
そして、強張った表情で意を決したように、

「会社設立したばっかりで申し訳ないんけど、今まで計画していた通りに会社を続行することはできないかもしれない。もし両親が見つかったとしても、故郷のこの状況を放っておけない。会社のことは一旦白紙に戻してほしいんだ」

とボクに告げたのだ。

ボクは衝撃を受けた。
でも両親との安否が取れず故郷が大変な状況の中で、今まで通りに仕事を続行することができない、という思いは当然なのかもしれなかった。
しかもまだ始めたばかりの会社だ。
後戻りはいくらでもできる。
そのタイミングであれば全てを白紙にすることはさほど難しいことではなかった。

希望に満ちあふれた新会社の船出。
まさしと話し合って、様々な計画があった。
順調な滑り出しと思えた矢先の出来事。
でも自分の力ではどうすることもできない事態だった。
自分の不運を呪うしかなかった。

しかしそのとき、まさしはボクとは比べものにならない不安な日々を送っていたはずだった。
会社どころではないのは当たり前だ。
何しろ、両親や親戚、友人や知人の安否が確認できない状況だったのだ。
想像を絶する精神状態に陥っているだろうことは容易に想像できた。
>> 次のページは >> この状況で下した決断とは?

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会社倒産の危機で立たされた人生の岐路

一時、30名近くいたスタッフは店舗事業からの撤退とともに会社を去っていた。(前回はこちら、最初から読む方はこちら
2011年2月、ボクはまた1人に戻ったのだ。
でも不思議と寂しさはなかった。
その年、2011年の6月に出産予定日を控えている我が子のためにも寂しさに浸っている暇はなかったのだ。

2011年1月末に、それまで運営していた全ての店舗を閉店させ、2月いっぱいは残務に追われていた。
しかし、それと同時にこれから先のことにも目を向けなくてはならなかった。
これまでの経験を活かせばいろいろとできそうなことはあった。
しかし、また何をするかは決まっていなかった。

以前のように眉間にシワを寄せながら、大きなストレスを感じ、資金繰り奔走したり、スタッフの教育に苦心したりするのは自分には向いていなかった。
そもそも、会社を設立したきっかけは『好きなときに、好きなだけ、好きなサーフィンをするため』だったのだ。
それがいつしか、好きなサーフィンがまったくできない働き方になってしまっていた。
まるでサーフィンをすることが後ろめたいことであるかのように感じてしまっていたのだ。
まさに本末転倒というやつだ。
これを機にもう一度原点に立ち返り、自由にサーフィンができるライフスタイルを実現させようと模索し始めたのだ。

それを実現させるには一体どうしたらいいのだろうか。
実際にそんなことが可能なのだろうか。
まずはそこから探ってみた。
もっともシンプルに考えてみると、サーフィンを仕事にするということだ。
ボクは1999年にプロ・ロングボーダーの資格を得て、それから数年間はプロサーファーとして生計を立てていた経験がある。
しかし、ボクの成績ではプロサーファーとしてのスポンサーからの給料や賞金だけで家族を養っていくのは現実的ではなかった。

それならライターとしての道はどうだろうか。
『書くこと』が大好きなボクにとってはライターという仕事が向いているように思えた。
以前、何度かサーフィン誌に寄稿したこともあったし、そのときにはそこそこ評価してもらえていた。

好きなことの単体勝負(つまりサーフィンやライター単体)では厳しそうだが、『サーフィン×書くこと』という組み合わせ技ならば勝負ができるかもしれないと思った。
それは、根拠のないものではなく、実は当サイト『Saltwater Players』(以降SWP)を立ち上げて以来、順調に読者を増やすことができていたことが自信の裏付けとなっていた。
>> 次のページは >> SWPの成長の影いは人物の力が大きく働いていた

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第3章 23話 有本圭自伝『少年おじさん』 〜上を向いて歩こう、海が全てを与えてくれるさ〜

人間落ちるところまで落ちるとあとは上を向くしかなくなる。
その場所が底だと感じればそうするしかないのだ。
「神様もこれ以上落とすようなことはしないだろう」なんてことを考えていたことを思い出す。

当時の有本圭。顔に悪い感じが出ちゃってますね〜

当時の有本圭。顔に悪い感じが出ちゃってますね〜


すべては自分の『欲』が発端になっていた。
原因がないところには結果はない。
『欲』を持つこと自体は決して悪い事ではない。
むしろ『欲』のない人は向上しないと思うのだ。
しかし僕の場合、その『欲』の種類が悪かったようだ。
『楽して稼ぎたい』だとか、『いつまでも好きなだけサーフィンをしていたい』などという自分勝手な甘い欲望が今回の自体を招いたのだ。

>> 次のページ >> やっぱり海しかないね〜

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第2章 有本圭自伝『少年おじさん』第15話 ~海からの帰り道~

今から約16年前(2011年現在)、僕の湘南ライフが始まった。(前回はこちら
パチンコ屋さんでの仕事は2交代制で、早番のときは朝一、夕方の2ラウンド、遅番のときは午前中たっぷりサーフィンすることができた。
今まで1時間かけて車で通っていた辻堂海岸まで自転車で約10分。
なんとなく自転車で海に向かっている自分の姿に酔いしれたりしていたのを思い出す。

深夜の少しエッチなテレビも堂々と見ることができたりして、僕は自由の翼を手に入れたように一人暮らしを満喫していた。
湘南に移住して2週間が過ぎるころになると新しい生活にも徐々に慣れはじめていた。

マーボロイヤルは今も辻堂にある老舗サーフショップ

マーボロイヤルは今も辻堂にある老舗サーフショップ

そんなある日、海からの帰り道に辻堂の老舗サーフショップ『マーボロイヤル』でサーフボードをなんとなく眺めていたときのことである。
そのショップのオーナーであり、レジェンドサーファーであるマーさんこと小室正則プロに声をかけられた。

>> 次のページ >> 小室プロの一言で人生が変わった!?

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有本圭自伝『少年おじさん』第13話 ~旅の終わり→ダメ人間化→そして新たなステージへ

イタリア自由気まま身勝手旅からなんとかかんとかニューヨークへと降り立ち、僕らは船に合流することができた。(前回はこちら
2週間ぶりに乗船するとなんだか人間関係が大きく変わっていることを肌で感じた。
今まで交流がなかった人たちがいきなりグループになっていたり、おしどり夫婦が何やらよそよそしくなっていたり、見たことのない人たちの姿を多く見かけたり・・・
僕はそれなりに戸惑い、どうもケツの座りが良くなかった。

ジャマイカ キングストンにて ~有本圭~

ジャマイカ キングストンにて ~有本圭~


船はジャマイカへと入港していった。
僕は新顔の『ハマちゃん』という大阪のサーファーと仲良くなっていた。
彼は現在、湘南にあるサーフィン、スケボーのメーカー『サーパストレーディング』という会社に勤めていて、いまでも友人として付き合っているのだ。
ジャマイカではこのハマちゃんと旅をし、さまざまな刺激を受けた。
キングストン港を一歩降り立つと、今までとはひと味もふた味も違う雰囲気だった。
ドレッドロン毛の人たちが当たり前のようにその辺にいて、フツーに道端でマリファナをくわえてふかしていた。
まるでタバコを吸うようにマリファナを吸っていたのだ。(1994年のお話です) 続きを読む…

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有本圭自伝『少年おじさん』第9話 日本だったら大変な問題・・・

大型客船『ゴールデンオデッセイ号』に乗船してから3週間が過ぎようとしていた。
たった3週間の間で、おそらく1年以上の経験をしたように思えた。
なにしろ乗船翌日には彼女ができ、その3週間後にはその彼女から「ちょっと距離をおきましょ」と言われ、さらにその間に山ほど新しい友人知人ができ、そうこうしているうちに6カ国目であるアフリカ大陸のケニア、モンバサ港に入港したのだ。(前回はこちら

例のごとく『オプショナルツアー』(寄港地でのツアー)に参加してない僕ら(コマッキーとカトキチ)は船が港に着くとすぐにレンタカーを探した。
アフリカといえば、草原、草原と言えばサファリ、ということで、いつものように原チャリを借りてうろうろするというのはなんとも恐ろしい結果を招きそうだったので今回は車を借りることにしたのだ。

レンタカー屋で「4WDレンタカープリーズ」とお願いしてみたが、どうも反応がうすい。
「あんたら車借りてどこ行こうってんだい」
と険のある表情でケニアのおっちゃんが僕らをニランデきた。
「そりゃー、サファリだよ、草原を走って野生の王国を堪能するんだよ」
と僕らも反撃した。
しかし、なかなかそのおっちゃん首を縦にふらない。
ようは、「あんたら何にも知んない日本人が自分たちで車を運転して草原にワーっと入っていったらすぐにライオンなどの肉食動物のご馳走になるだけだからやめときな。とっとと船に帰んな。はい、けえったけえった」ということのようだった。

アフリカのケニアにまでやって来て、野生動物が危ないからといって、そのまますごすごと引き下がり、船に戻って安心して眠る、なんていう選択肢は僕らにはなかった。
なにがなんでもアフリカの大草原で『野生の王国』(昔、日曜日の夜にやっていた番組)を体験するんだ!、という強い意志をもってそのおっちゃんと交渉を重ねた結果、「ガイドをつけるなら行ってもよろしい」ということになった。
ちょっと割高にはなってしまったが背に腹はかえられない。

デニという名の、やはり表情に険がある僕らよりおそらくやや年長のガイドがついた。
アフリカ人というのは黙っているとやや恐ろしい感じがするのだが、ひと度仲良くなってしまうと人懐っこい子供のような笑顔をみせてくれた。

サファリ in ケニア ~左)カトキチ 右)少年おじさん~

サファリ in ケニア ~左)カトキチ 右)少年おじさん~

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